道頓堀ストーリー

終戦後の何もない時代から。

沖縄そば、ゴーヤちゃんぷるー・・・。沖縄庶民の味として愛され、今や沖縄グルメは全国で有名となっています。今から60年以上の昔。悲惨な戦争が終わり沖縄が復興へと歩み始めたその頃、那覇市の中心部に「道頓堀」は店を開きました。 昭和28年頃に大阪から祖父 上原寛太郎が沖縄に引き揚げ那覇市牧志町に(現住所 松尾)旅館を開業するも昭和30年頃、食堂へ業種転換『道頓堀』の開業、その頃父寛一も大阪から沖縄へ引揚げてきて『道頓堀』で勤める、家族で飲食店を開いてきました。店名は戦前、祖父寛太郎が住んでいた大阪の『食いダオレ』の街の代名詞、道頓堀にあやかり命名する。 復興を目指し懸命に生きる仲間のために、手に入る材料でみそ汁を作り、今川焼を焼き、那覇市の発展を応援していました。 昭和35年(1960年)頃より、子の寛一夫婦が『道頓堀』から独立し出前を中心にした食堂を八軒食堂通りの角に開きます、ちなみに其の時、店名はありませんでしたが『道頓堀』と周りの方からは呼ばれていたようです。この頃の公設市場は人々の生活の中心であり、食料品、衣料品、家庭用品等を扱う店が建ち並び大変なにぎわいとなっていました。 当時は電話も冷蔵庫もないので、公設市場内や周囲のお店、化粧市場(現在の牧志公設市場雑貨部)や反物市場(現在の牧志公設市場衣料部)を回って注文を取って昼食時に販売し、終わる頃に食器を回収する、今でいうケイタリング(宅配サービス)を行なっていました。

公設市場の発展とともに。

市場が忙しい時はさっと食べられるものを、クンチ(精力)をつけるとよい時期はイラブー汁などスタミナがつく料理など、お客様に合わせた日替わりの料理が好評でした。好みやお腹の好き具合によって注文のできるおでんや、よく煮込んだテビチも大人気でした。 昭和43年には、祖父貫太郎の店を引き継ぎ、兄隆が「中央コーヒー店」として営業を始めます。店内には沖縄では初めての有線放送から流行りの音楽が流れ、たこ焼きやポップコーン、冷やしもの等を提供し特に当時としは沖縄初のチョコとバニラのツートンのソフトクリームが大人気となり、若者や中高校生を中心に繁盛していましたが、何故かご近所からは「中央コーヒー店」ではなく『道頓堀』と呼ばれるお店でした。 より活況を見せる公設市場にこたえるかのように、食堂も小間を広げ、より多くのお客様に食事をふるまえるようになりました。

沖縄の味をこれからも伝えていきます。

昭和47年に現在の第一牧志公設市場開場に合わせて父寛一が(おでん)専門店を開業、其の時も看板には店名無くは大きく『おでん』と書かれているだけで簡素な看板でしたが、やはり周りからは『道頓堀』と呼ばれていましたが、昭和48年には第二公設市場で営業していた兄隆が、第一公設市場の寛一夫婦の食堂に加わり、後に『道頓堀』の看板を掲げます。 そしてそれ以来40年以上、沖縄の伝統の味を伝えてまいりました。この間米軍占領下からの復帰、日本の高度発展とともに歩んできました。いまや沖縄グルメの魅力は全国、そして世界にも伝わり、たくさんのお客様がご来店くださることに感謝の気持ちで一杯です 人の心を温める沖縄の味を、これからもご愛顧いただけますように。
 

昭和44年の公設市場大火事のあと。建物が全焼し、多くの方が店を失うも死傷者は無し

人気メニューとしておでんが登場

上原寛一の妻・良子。この頃には人気メニューとしておでんが登場。(昭和48年頃)

昭和50年代の「道頓堀」の様子

昭和50年代の「道頓堀」の様子。いまと変わらない壁のお品書き。